栃木県・小山市の蛇まつり「間々田のジャガマイタ」に行ってきた話。管理人の地元からそれなりに近くて祝日開催で、駅からも遠くないという超行やすい条件がそろっているのだが、今まで行けてなかった行事の一つ。
歴史的なことや行事予定は間々田八幡宮さんのホームページ↓に超しっかり載っているので、行きたいひとはチェックしておくのがおすすめです。
では、ちょっと予想より長い記事になってしまいましたが、こんな流れでお話していきます。
間々田駅から八幡様へ
ジャガマイタは、毎年5月5日に行われる行事。間々田八幡宮周辺の7つの自治会ごとに蛇(じゃ)と呼ばれるものを作り、練り歩いて疫病退散・五穀豊穣を願うものであるという。
当日の大まかな流れとしては、
- 蛇たちが間々田八幡宮に集合
- 拝殿前で修祓式
- 弁天池で「水飲みの儀」
- 各地域に戻って辻々をまわる
といった感じだ。
間々田駅に到着して、少し歩くと日光街道に出る。そこから道沿いに歩いていくと、手前から八幡宮に向かって一丁目→五丁目と、ほぼ道沿いに各自治会館がある。
そして、八幡宮のさらに奥(北)へ進むと六丁目・長者町がある。この1~6丁目+長者町が参加自治体だ。
ちなみに、おそらくこれは合併前の区分で、今は「大字 間々田」のあとは番地が付くだけで住所としては間々田〇丁目というのはないらしい。
このように街道沿いに自治会館があるので、下調べ不足ではあったが駅からほどなくして待機中の蛇を発見できた。
(蛇の周りに地元の若い子がたくさんいて怖気づいたので、写真は撮れませんでした…)
一丁目の蛇のようだが、一丁目自治会館より手前にある龍昌寺さんから顔を出していた。ちなみに、この龍昌寺さんは「間々田のジャガマイタ」の起源の一つと言われる寺院。

↑帰り道に撮った、蛇がいない状態の龍昌寺さん。
かつて間々田村が日照りと疫病に襲われた際に、龍昌寺の住職(法隆東林)が八大龍王を象った龍を作って祈祷を行った。すると病はおさまり雨が降ったので、以降は住人たちが自ら龍を作り行事化したという話が伝わっているという。
そのほか、特定の人物の名前は出てこず、単に八大龍王信仰が間々田でも広まり「五穀豊穣につながる恵みの雨を八大龍王に願う行事が始まった」という説もある。
八大龍王のこと
さっきから当たり前のように八大龍王八大龍王って、誰やねん。と思いながら読んでいた人に申し訳ないので、ちょっとだけ八大龍王様の話をしようと思う。
八大龍王は、「妙法蓮華経」の登場人物(?)。妙法蓮華経というのは「法華経」とも呼ばれる大乗仏教の経典。そこに、仏の教えに耳を傾け、仏法を護る善き神=護法善神として登場する龍族の8人の王が「八大龍王」と呼ばれている。
で、八大龍王自体は経典に載っていたので、聖徳太子の時代には仏教を学べる立場の人なら知っていたと思う。そこから一般の人に浸透したのは、鎌倉時代より少し前くらいと言われている。
蛇(じゃ)寄せが始まる
そんなことを考えながら管理人が境内をチェックをしているうちに、蛇が来そうな雰囲気に!遠くから「ジャーガマイタ!ジャガマイタ!」の掛け声が聞こえてくる。
ちなみに、管理人は事前に動画を見たりはしないタイプの人間なので、勝手に「じゃーがまいた、じゃがまいた」の掛け声は「とーおかんや、とおかんや」くらい、のどかなものだと思っていた。
※十日夜(とおかんや)とは、稲刈りが終わった後にモグラ除けなどのため藁鉄砲で地面をたたきながら「とーうかんや、とうかんや」と唱えて回るものである。テンポ的には「かーごめかごめ」くらいである(リズムは違うが)
しかし、ジャガマイタはホイッスルも相まって…なんていうの?テンポ的には、もうサンバくらいの勢いにすら聞こえる。

そしていよいよ、鳥居をくぐった蛇が階段を下ってきた。
「え?下ってくるの?」と違和感を覚えた人、するどいですね。というのも、間々田八幡宮は、下り参道なのである。
一般的に、境内に入る鳥居をくぐってから拝殿に至る道は平ら、もしくは上がっていることが多い。しかし、「鳥居を入ったら下る」タイプのちょっと珍しい参道が「下り参道」だ。

なぜ下っているのかには諸説あるが、水と親和性の高い境内であることが多くて個人的には下り参道の神社が好きである。
(蛇足だが、こちらに今まで行ったなかでもだいぶ急峻な下り参道だった「木曽三社神社」の記事を載せておくので良かったら読んでください。)
で、下り参道だと何がいいかって、管理人の好みの話だけではない。今回の蛇のように「縦に長いもの」を掲げて練り歩く祭りでは、参道にアップダウンがあるほうが見やすいのである。特に、自分のような低身長ならなおさら。
さらに…拝殿前には「登り」もある。

荒々しい行事ではあるが、こういった場所で「安全に進行するために担ぎ手や指示役が非常に注意深く体勢を整えていること」が垣間見えるのも、個人的には好き。
そして、蛇が登場する前は広々としていた拝殿前は…もう人の波の中を蛇が泳いでくるような状態である。
こんな状況だが、間々田八幡宮さんの公式サイトを読んでいると、「このタイミングなら混んでいても蛇が間近で見られるかも!」という場所が。
で、行ってみたら周りに誰もいな過ぎて「やっぱり違かった?」と心配になったが…見られた!しかも、なんと3丁目の蛇、口から煙を吐いていた!すごい仕掛け!

いざ、弁天池へ

「間々田のジャガマイタ」の観光的視点での目玉ともいえるのが「水飲みの儀」。
拝殿前で修祓式を終えた蛇たちは、宮司さんから口にお酒を注いでもらった後に、本殿のまわりを右回りに一周まわって弁天池へ向かう。
ここで蛇の顔を池に差し入れて、水を飲むように上下させる…というのが水飲みの儀だ。
が、多くの蛇は体まで池に入って(それどころか池の中ほどまで進んで)周囲で見ている人々に水をかける勢いで暴れまわる!
これは、祭りでよくある「もっと地味だったけど、このほうが盛り上がるから」を各町内が競い合っているうちに一種の見せ場的に進化していくやつかも。と思いながら見ていた。
よく見てみると龍の尾には綱が付いていて、その先は剣の形をしている。龍王だし…コレは不動明王の剣なんだろうか。と思いながら見ていた。
※先ほど挙げた八大龍王には入っていないが、不動明王の剣に巻き付いている俱利伽羅(くりから)も龍王の一人であるとされている
…が、帰宅後にいろいろ調べていると、どうやら倶利伽羅剣ではないことがわかった。
ジャガマイタの開催日程のこと
剣の話をする前のワンクッションとして、ジャガマイタが行われていた日付の話をしたい。
ジャガマイタは、かつては旧暦の4月8日に行われていた。宿場町の若衆が中心となった荒々しい行事であったそうで、昼は子どもたち・夜になると若衆が蛇を担いだという。
それが現在のように中学生を中心としたものに変わるなかで子どもたちが参加しやすい5月5日に変わり、時間帯も昼が中心になったと思われる。
祭礼が昔ながらの「日付固定」から住民が参加しやすい「曜日固定」になるのはよくあることだ。
そして、日付が変わったのに伴い、もう一つ変化したのが掛け声。
ジャガマイタの現在の掛け声は「ジャーガマイタ、ジャガマイタ」のみであるが、日程が5月5日になる前は「ジャーガマイタ、ジャガマイタ。四月八日のジャガマイタ」であったとされている。
日付の部分だけ変えて「五月五日のジャガマイタ」でもさほど語呂は悪くないように思うが、なぜ日付を言わなくなったのか…?
そう考えたときに思い浮かぶのは「四月八日であることに意味があったから敢えて言葉にしていたのではないか」という理由だ。
「卯月八日」と剣の正体
旧暦の4月8日、古い呼び方で卯月八日。この日は疫病除けや農耕などに関わる民間習俗が多くみられる日である。
その内容は幅広いので今回は詳しく触れないが、柳田国男の「先祖の話」という本の中に、ズバリ「卯月八日」という項がある。卯月八日にはかつて「山」や「先祖供養」に関する行事が行われていた可能性があるとする考察が主な内容だ。
柳田先生は「そう思って見るからそう見えのかも」「(自然に見えてくるのでなく)探して見つけるほどの古く珍しい習俗」というニュアンスで話しているが、偶然にもその例に挙がっているのが管理人の地元近くの習俗なので妙に納得した覚えがある。
そして、実はこの柳田國男の「卯月八日」はジャガマイタが栃木県の無形文化財に指定された際の調書でも引き合いに出されている。
その文章でわかったのが、先ほどの「蛇の尻尾についている剣」の正体。実は、あの部分はもともと卒塔婆であったという。あの、お墓に立っている細長い板だ。正直、不動明王との関連を想定して調べていたタイミングで出会った情報なので驚いた。
調書では、この卒塔婆の尻剣(あの剣をそう呼ぶらしい)に関して「(柳田國男が考察したように)卯月八日と死者供養のかかわりを示す貴重な事例ではないか」としている。
ちなみに、管理人の地元・赤城山麓にあった習俗では卯月八日の行事は主に「1年以内に身内が亡くなった者」が行う。なので、個人的には「使われていた卒塔婆は各地区で前年の祭り以降に新仏となった方の物だったのか」というのが気になるところだ。
さらに、調書でもう一つ名前が挙がっているのが『民俗藝術』3巻2号に掲載された『下野間々田町の「蛇がまいた」』(瀬沼寛二)という文章。
昭和初期のジャガマイタについて記されており、そこには「蛇まつりの前夜には、各家の軒・出入口などに藤蔓とウツギを挿した」「8日に子どもたちがこれをもらい集めて蛇を作る」とある。
これは、単に「蛇の材料を子どもたちに提供するために、前日に各戸が用意しておく」というだけではない、と思う。というのも、卯月八日の習俗として北関東を中心に「軒に藤を飾る」例がみられるのだ。
しかも、藤のみを飾る地域のほか、群馬と栃木の境・埼玉の一部では藤とウツギを両方飾っていたという。間々田町周辺は、ちょうどこの「両方飾る地域」にあたる。
※現在は藤の花と菖蒲を飾るそうだ
「軒花」などと呼ばれるこの習俗は、先祖供養に限らず豊作を祈るものや疫病除けなど地域によってさまざまな意味があったという。
そのため、ジャガマイタと死者供養の関連を補強するものとは言い切れないが、少なくともジャガマイタと他の地域の卯月八日習俗の連続性を感じる情報だと思った。
この記事の最後に調書をオンラインで見ることができるリンクが貼ってあり、そのリンク先の後半に昭和に使用された尻剣の写真が載っている。卒塔婆そのものではないが、今よりもやや卒塔婆らしさがあるので見てみてほしい。
家々をめぐり、校庭をめぐる

尻剣(蛇の尻尾部分の剣型飾り)が管理人の興味に突き刺さって脱線したが、水飲みの儀を終えると蛇たちは自分たちの町内へ帰っていき辻々を練り歩く。
なお、昔の練り歩きは今よりもゴリゴリ(?)しており、家の玄関に蛇が頭を差し入れて口にお神酒を注いでもらうにとどまらず、玄関から勝手口まで家の中を通り抜けたりしたそうだ。
(当時の様子が、NHKアーカイブで見られるので、興味がある方はぜひ。短い時事ニュース的なものではあるが、「栃木 蛇まつり」として報じられている。)
また、田植え前の田んぼに入って暴れたりもしたそうで、「あ、なんだか田の神を迎えるこの時期らしい行事かもしれない」と管理人はうれしくなってくる。
そして、さらに時代をさかのぼると荒々しさは増し、「評判の悪い家に入って暴れまわった」といった話もあるようだ。もはや、蛇まつりの日に家を荒らされないように普段の行いから気をつけたくなるレベルではないか。
こうした荒々しさも昭和50年代ごろを境におとなしめになり、喧嘩腰で蛇をぶつけ合う「蛇もみ」もなくなったということだ。が、練り歩きが終わる夕方17:00ごろに間々田小学校の校庭に行くと一部の自治会により復活した「蛇もみ」が見られる。
さすがに喧嘩腰ではなく安全に配慮して行われていて、蛇同士が直接ぶつからないよう加減しているようだ。なので「揉む」という印象ではないが、高速で回る蛇は迫力があった。
ジャガマイタの語源は「蛇が巻いた」だという説もあるので、そうだとすれば昔から「蛇が暴れる」といえばこの動きだったのかもしれない。(そのほか「蛇が参った」説もある)
神社などでたまに見かける藁蛇のように、しばらくどこかに飾ったりするのだろうかと思ったが、一日暴れまわった蛇は分解されて処分されるらしい。
あっけない気もするが、虫送り的な感じで町中の厄災を引き受けた蛇は「捨てる」ことに意味があるのだろうなと思った。
なお、江戸時代は「村境の決まった場所に捨てていた」ということなので、村内の厄を背負って外に出すだけでなく、「悪いものを入れない」辻切りのような役割もあったのだろう。
辻斬りじゃなく、「辻切り」ね。外からの災厄を防ぐためのまじないとして、地域外との境に札や幣束・藁蛇などを置いておくこと。
どのような状態で捨てるのかまでは見てこられなかったが、また来年以降に今年みられなかったものなどを見に行けたらなと思う。
では、今回はこの辺で。
参考文献
- 『先祖の話』(柳田國男,1975年)
▶Amazonで探す方はこちら ▶楽天市場で探す方はこちら - 地平社書房『民俗藝術』3巻2号(民俗芸術の会 編,1930年)より
『下野間々田町の「蛇がまいた」』(瀬沼寛二) - アーツアンドクラフツ『民俗学からみる列島文化』(小川直之 編,2023年)より
『卯月八日の「天道花」習俗とその分布』(伊藤新之輔)
▶Amazonで探す方はこちら ▶楽天市場で探す方はこちら - 栃木県文化財保護審議会『無形民俗文化財の指定について』(2017年)
- 間々田八幡宮公式ホームページ>間々田のじゃがまいた
※買ってゆっくり読みたい人、本棚に置いておきたい人用にいくつか購入リンクも貼りましたが、青空文庫・図書館で読めたりもします