とまのす

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鳥居の向こうに、毘沙門天。|岩手 達谷窟毘沙門堂

※この記事は、過去に「いろとりどり、とどりの鹿踊 Part1」として投稿したものを整理するため分割・再編したものです。

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前回、都鳥鹿踊の奉納を見にお邪魔した岩手県平泉町・達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂。

今回、見に行くにあたって「ここがどのような場所なのか」「どのような歴史があるのか」少し調べたので、公式サイトや『吾妻鏡』をもとにまとめておく。

 

毘沙門堂と西光寺

まず、公式サイトを見ると「達谷窟毘沙門堂 別當 達谷西光寺」と書かれている。

別當(べっとう)という言葉にはいろいろな意味があるが、この場合は根本道場(=毘沙門堂)の神事などに携わる寺(別當寺)という意味と思われる。

※根本道場というのは字のごとく「教えの根本・修行の中心」となる場所を指す。

 

「神仏習合の寺院」と書かれており、たしかに達谷窟毘沙門堂へ向かう道には上の写真のように鳥居があって神社のような雰囲気もあった。

 

この「神」がどの神様を指すかは明確に書かれていないが、鳥居をくぐると毘沙門天・弁財天・不動明王のほか岩面に刻まれた阿弥陀如来(一説には大日如来)がおわす。

そして、境内の入り口まで戻って鳥居を左手に見つつ右へ進むと薬師如来を本尊とする金堂があり、こちらは完全に寺院のたたずまいだ。

個人的には毘沙門天と言えば寺院(仏教系)というイメージがあるが、明確に「神道系の神社です」という感じのものはなかったので、護法善“神”とも呼ばれる毘沙門天や弁財天を「神」とするということだろうか。

 

この毘沙門堂境内はもちろん殺生禁断だが、さらに西光寺のお坊さんは「弔事に出仕した日は毘沙門堂の鳥居をくぐることもできなくなる」とのこと。そのため、達谷西光寺は寺院でありながら檀家は無く、葬式を営まないのだとか。なるほど。

 

毘沙門堂の歴史

毘沙門堂自体も行ってみた。入ってみると香が焚かれていて厳かな気持ちになる場所だった。堂内は撮影禁止のため写真はないが、外から見ても立派な懸造りに圧倒される

毘沙門堂を創建したのは、歴史の授業にも出てくる坂上田村麻呂とされている。

伝承では、蝦夷の悪路王が達谷窟を拠点としており、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂がこれを平定。勝利を収めた田村麻呂は「戦てたのは毘沙門天の加護!」と考え、京都・鞍馬寺を模した精舎を建てて毘沙門天を祀ったそうだ。

※公式サイトでは「清水寺の舞台を模した」となっているが、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』では「鞍馬寺に摸令め、多門天像を安置す」と記されている。たしかに懸造りといえば清水寺というイメージがあるが、実は鞍馬寺の金堂周辺も懸造りになっている。さらに、鞍馬寺も毘沙門天をお祀りしたのが始まりという点でも、私としては「おそらく鞍馬寺なのだろう」とは思う。

 

その後も達谷窟毘沙門堂・別當達谷西光寺は

  • 源頼義・義家:前九年の役で戦勝祈願
  • 奥州藤原氏 清衡・基衡:七堂伽藍を建立
  • 領主・葛西氏:延徳二年の大火で焼失した御堂を再建
  • 伊達政宗:戦国時代に焼失した毘沙門堂を再建

など、有名どころからも厚い信仰を集めたらしく、一時は天台三箇院(廣照院正念坊・樺澤坊・下田坊)、本山派修験(奉行坊・敎覺院・龍覺坊・無量壽院)を擁する一山寺院だったそうだ。

※一山寺院とは:一つの山、または広大な境内地にある本寺や末寺などの総称。もしくは、そのような形式の寺院のこと。

『吾妻鏡』によると田村麻呂が西光寺に寄進した土地は「東西は北上川から蔵王岩屋まで、南北は岩井川から牛木長峰まで」とのことなのでかなりの広さではないだろうか。

 

その後は火災や廃仏毀釈・経年による腐朽などの影響を受けて堂宇の再建をしたり、飛地境内にあった御堂を毘沙門堂の近くに建て直したり。

現在、境内にある金堂はもともと達谷川をはさんで対岸にあったもの、不動尊も飛地境内だった姫待瀧にあったものだという。

土地としてはコンパクトにはなったが、逆に言えば境内をめぐるだけでいろいろな神様に出会えるということでもある。

 

なお、達谷窟の毘沙門天さんのお札は牛玉寳印(ごおうほういん)といって「最強の御札」として授与されている。

毎年元旦から8日間の「修正會」で加持祈祷を経てできあがるものでビジュアルも(個人的には)かっこいいので、ぜひご参拝の際に手に入れて玄関などにどうぞ。

 

参考文献

今回、達谷窟毘沙門堂の昔の様子が知りたくて読んだのは、この本。


五味文彦『現代語訳 吾妻鏡(4) 奥州合戦』

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この『吾妻鏡』で寺社に関する部分を読んでみると、頼朝さんは戦乱で荒廃した寺社など「信仰の場」に対して庇護的な姿勢だったことがうかがえた。それは、自らが攻め込んだ土地の寺社に対しても同じ…というのが好感度が上がる。

で、好感度はさておき1189年に源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、鎌倉に帰る途中に達谷窟毘沙門堂に立ち寄ったことが書かれている

(文章からすると、戦勝祈願のお礼参りとかでなく偶然通ったような雰囲気ではあった。なお、当時は「田谷窟」と書いて「たっこくのいわや」と読んでいたようだ)。

達谷窟についての主な内容は「頼朝が周囲の人物から伝え聴いた情報」として記されているので「歴史的にすべて正しい」というものでもないと思うが、立ち寄った寺社や周辺の地形など当時の状況が知りたい人はおすすめです。