とまのす

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要石とダイジンのこと|映画「すずめの戸締まり」を見て③

考え続けていると他のことが手に付かないので、ひとまず考えをまとめて日常に戻ろうシリーズ。一応、今回で一区切りします。今回は、要石(かなめいし)と「ダイジン」のことを考えていきます。

鹿島神宮の要石

今回は、さすがにストーリーの内容に触れずに書くことはできなかったので多少のネタバレ含みます。

また、未鑑賞の方には分かりにくい部分もあると思うので 見たり読んだりした後で読んでいただくことをオススメいたします

m(_ _)m

 

要石のこと

ググれば出てくることなので詳細の検索は皆さまに任せるとして、簡単に言うと、地震を抑えるとされた石のこと。かなり深く埋まっているので地表に出ているのはほんの一部で、これが揺るぐ大地を繋ぎとめるとも、地震の原因であるナマズや龍を突き刺し固定することで地震を抑えるとも言う。

 

歴史の中の要石

日本書紀の頃から日本には「大海原を漂う島を今の場所に繋ぎとめている杭のような場所が数カ所ある」という考え方があったらしいが、これに関しては地震に特化して固定しているという意味合いは薄そうだ。

 

その時代から度重なる地震に見舞われる中で地震と関連深そうなものを祀ったり、それに関する和歌や絵を家に貼ることで地震除けとすることが流行ってだんだんと要石への信仰も集まってきたという部分もあると思う。

 

現在、実在する有名な要石と言えば鹿島神宮(茨城県)香取神宮(千葉県)。ちなみに、今回のサムネイルには鹿島神宮の要石を使わせていただいた。しかし、作中での要石の位置を見ると茨城と千葉は関係ないっぽいので今回はあまりこちらには触れないこととする。

 

作中の「動く要石」

「すずめの戸締り」に登場する要石は、時代によって位置が変わる。時の流れで地中にうごめく龍脈の経路も災害の形も変化するから、ずっと同じところに刺しておくのでは意味がないらしい。

 

草太の持っている古文書の中には、その位置を示した目録がある。小説版を読むと、初期の地図は「島のようなものの端と端に」剣が刺さっているらしいが、中世の地図には北海道が描かれていない可能性を考えると端というのは東北と九州のどこかかもしれない。

時代を下り、もう一段階新しい地図では「さっきと少しずれた場所」に剣。そして、その次の時代には「東北の端と琵琶湖の下」となる。個人的に気になったのは、これが東日本大震災と阪神淡路大震災に対する要石なのかということだ。

 

もしそうであれば、その次のページに記された現存する要石の位置=東京と宮崎(すずめの地域に在ったもの)は未来の地震を表していることになる。そして、その位置から想像できるのが首都直下型地震南海トラフ巨大地震ではないだろうか。

※あくまで私個人の感覚であり、作品中で地域が明示されているわけではない

 

ただし、物語の中の要石が実際に大震災の「震源」を予想する物かと言えば少し疑問ではある。もしそうであれば作中で要石が明治時代に東京・宮崎に刺されたのに、なぜどちらでもない東北が被災をしてしまったのか。

もしかすると、作中の要石の位置は私たちに歴代の大震災を連想はさせるが、その位置は実際には震源とは関係がなくその時代時代の「ミミズの尾と頭」の位置に過ぎないのだろうか?

 

それとも(なぜ現代に東北に要石が無かったのかということは一旦置いておいて)今回のように大地震の前触れとして要石が抜けるのであれば、作中で現存する宮崎と東京の要石が記されたページは「明治34年」。それ以前の要石はその年より前に機能を果たさなくなったということになる。

 

もしかすると「東北の端と琵琶湖の下」の要石は現代の地震を予測するものではなく

・明治29年の明治三陸地震
・明治30年の宮城県沖地震
・明治32年の紀伊大和地震

の前に抜けてしまい、やっと明治34年に新たな要石を刺すことができた…のかもしれない。完全に妄想だけど。

 

まぁでもダイジンが「うしろどは またひらくよ」と言っていたように、地震は繰り返す。もし作中の要石が過去の地震に関する物だったとしても、またいつ起きても不思議ではないということに変わりはないだろう。

映画を見ているときも、そのメッセージが繰り返し、色々な言葉や方法で伝わってくるような気がするなと思っていた。

 

ダイジンのこと

作中に出てくる白猫・ダイジンは、宮崎ですずめが抜いてしまった要石が生物(仔猫)として顕現した姿。顕現とは、普段姿を見せず声も発しない神などが見える&やり取りできるような形態で人の前に姿を現すことだ。

そう考えると、要石(ダイジン)は神様なのだろうか。神様っぽいなという印象を受けたシーンは、すずめに必要とされれば全身がふっくらと生命力を帯びた姿になり、拒絶されればやせ細ったみすぼらしい子猫に戻ってしまうあたり。

信仰を得れば永らえ、信仰を失えば存在が危うくなる。神様は、人が思うほど永遠の存在ではなくて、必要とされずには存在し続けられないものかもしれないと思うことがある。

 

神としては、まだ「子ども」?

ただ、ダイジンに神のような力があることは確かなのだけれど、管理人はその姿や話し方のとおり「まだ神としては子ども」という印象を受けた。

 

例えば後に登場する黒猫「サダイジン」と比べれば体も小さく、常世に入って巨大化した際の大きさ・巨大化していられる時間も頼りない。なにより、サダイジン登場シーンではまさに子猫というかんじで首根っこをくわえられている。

おそらく、神的な者としてはサダイジンのほうが先輩なのだろう。

 

名前から考えても、サダイジン=左大臣という前提で話を進めれば、それと対をなすダイジンは正式名称:ウダイジンの可能性もある。

右大臣と左大臣はいずれも昔の朝廷で最高機関の官職であったが、一般的には左大臣のほうが右大臣よりも年長者が務めることも多いらしく、実質的な太政官の最高位とされている。つまり、ダイジンが「ウダイジン」だとしたらサダイジンよりは下の立場となる。

もしくは、自らウダイジンと名乗るシーンは無いので、ウダイジンとなるべく研鑽中の身なのだろうか。

 

まだ、神を宿すものとしては未熟ということであれば、本来果たすべきはずの要石としての役割に飽きて出歩きたくなったり、もしくは寂しくなって自分を抜いてくれたすずめに懐くのも理解できる気もする。

 

要石は「石」ではないかもしれない

では、神になる前は何だったのか。いや、産まれたときから神で、しかし子どもの神であるから研鑽中なのか?そう考えたときに手掛かりになりそうなのが草太の祖父の発言だ。

・これから何十年もかけ要石になっていく
・要石は神を宿している
・人の身には望み得ぬほどの誉れ
・最後に覚悟を示したか

※未鑑賞の人にはわかりにくくて申し訳ないが、「どんな場面で誰について言ったのか」まで書いてしまうと完全なネタバレになってしまうのでご容赦ください

 

つまり、要石は最初から完全な要石として機能するわけではない。そして「神を宿」すということは、要石は神自体ではなく依り代(よりしろ)ということだ。

さらに、私自身も要石というのは「石」だと思い込みながら映画を見ていたのだけれど、これらのセリフが出てきたときの状況から人が要石になることもあるらしいと推測できる。

 

ということは、もしかすると今の要石であるダイジンも人間だった可能性はある。

証拠はないが、神戸のスナックでダイジンが座っている席を見て店員の女性が「物静かで品がある」「渋めで素敵」と言っているので…それが人だった時の姿なのかもしれないと想像した。

 

…ということで、まだ見ていないのにうっかりこの記事を最後まで読んでしまった方も、ぜひ作品を見たうえで「自分はこう感じた」を楽しんでみてほしい。

 

※作中では、緊急地震速報のような音が鳴るシーンがあったり津波の後の町を思わせる常世の風景があったりするので、地震や津波に対して強い恐怖感を持っている人は念のためご注意いただければと思う