長野県にある諏訪湖の周りには、いくつも神社や寺院がある。今回は諏訪湖畔の寺社をめぐりながら考えたことを書いていきたいと思います。
八剱神社
諏訪湖といえば冬場にみられる「御神渡り」。この御神渡りに関する一連の「御渡神事」を行っているのが、小和田にある八剱神社だ。

御神渡りというのは「氷にヒビが入れば何でも御神渡り」というものでなく、毎年宮司さんたちがヒビの向きや大きさを観察して記録している。
その記録は1682年以前の「當社神幸記」と1682年以降の「御渡帳」として残っており、2つ合わせれば429年間にもわたるという。
これを知ると、年占としての御渡神事というのは非科学的な神託のようなものでなく、ビッグデータを参照した統計的予測に近い…ようにさえ感じた。
なお、「當社神幸記」と「御渡帳」は諏訪市博物館の常設展示で見られる。是非、諏訪に行ったら入ってみてくだされ。※月曜・祝日翌日は休館らしいので注意!
八剱神社では、湖に氷堤がせり上がる現象自体は「御神渡り(おみわたり)」、諏訪湖の神事に関わる文脈の場合は「御渡(みわたり)」と使い分けがされているようだ。
管理人の思ったこと①神事は「見えないもの」を見える化する装置?
「年占」とは、年の初めに当年の作物の豊凶などを占うこと。八剱神社の御渡神事もその一つだ。
ほかに筒粥神事や、放置した餅のひび割れ具合・放置した粥のカビ具合などで占う神事もある。
観察対象は違うが、どれも温度や湿度の変化etc…目に見えにくいものを目に見える形にして観察しているようにも見えてくる。
こうして見ると、占いや神事というのは「超常現象」的なことではなく、自然をつぶさに見続けることでわかる小さな徴を、集団全員に見える形に増幅する装置なのかも。と感じた。
甲立寺(こうりゅうじ)
八剱神社の隣には八剱山・甲立寺 というお寺さんがある。
今は小和田にある八剣神社と甲立寺だが、昔は今よりも諏訪湖に近い「高島」にあったとされる。それが、高島城を建てるにあたり現在地に移されたそうだ。
境内には太子堂があり、その隣には「鏝(こて)塚」があった。聖徳太子は建築(大工)の守り神とされることも多いので、太子堂を信仰していた左官屋さんたちが作ったのだろうか。
そして、この弁才天。

お参りをしているときは「造りが繊細で、迫力もあっていい!」という単純な感想しか抱いていなかったが…以前は甲立寺境内に弁天池があり、甲立寺にはほかにも弁天像があるという。
それを聞くと、この弁天像も思った以上に重要な信仰の手がかりではないかという気もしてきた。
管理人の思ったこと②高「島」はどこへ行ったのか
八剣神社と甲立寺があった「高島」だが、そこに築城された高島城が“水上の城”や“浮城”といわれていたことから、名前だけでなく実際に「島」であったと思われる。
しかし、今の高島を見てみると島は見当たらない。どこへ行ってしまったのか。そう思いながら古地図を見てみると、なにか違和感がある。
諏訪湖の周辺に点在している寺社が、なんだか今より諏訪湖に近い気がする。
場所を移したのか、とも思ったがそうではなく、なんだか諏訪湖が大きい。もしかしてこれは、今よりも水位が高いのではないか…。
もしそうだとしたら、島がどこかへ行ってしまったのではなく、周りが陸になってしまったので「島」ではなくなってしまったということなのだろう。
浜中島弁財天
次に、諏訪湖のほぼ対岸・岡谷へ移動。道路を挟んで建っている弁財天と御社宮司社を訪れた。
まずこちらが弁財天。
丸みを帯びた可愛らしい屋根に、諏訪の葛井神社や先宮などで見た「注連掛鳥居」。(鳥居の一番上の横棒がないパターンの鳥居)。
そして覗くと 琵琶を持った弁財天がいた。あまり年期が入っている感じはせず、石材店で売ってるような石造りのモノだ。その横には弁財天の御姿を描いた絵が、少し狭そうに飾ってある。
なんだかちょっと不思議な感じのする造りだな。と考えていると、合流できた長野の知人も隣で「変だよねぇ。なんか角度が変なんだよねぇ」と独り言(なのだろうか)を言っている。
このときは単なる違和感だったが、帰宅後に調べてみると、この違和感は諏訪湖の治水史と関係しているのではないかと思うようになった。
管理人の思ったこと③弁天様は治水を願って建てられた?
私が見た中では、諏訪湖畔の神社は鳥居が諏訪湖のほうを向いているものが多い。本殿に対して、鳥居が諏訪湖側にあるということだ。
しかし、この弁天様はこのような感じ↓の向きに経っていた。
道を挟んですぐの御社宮司神社は、他の多くの神社と同じく諏訪湖の方を向いている。
一方、弁天様は天竜川に背を向けるような角度で東の方を向いている。諏訪湖に対して、90°横を向いているような感じだ。
コレに関しては、帰宅していくつか資料を読んで仮説を立てたので書いておきたい。
まず社殿の方向以外に引っかかるのが、「浜中島弁財天」と「下浜御社宮司神社」がこんなに近いのに別の地名を冠していることだ。
しかも、弁天さんのほうは浜中「島」。例外も多いだろうが、島と付く場所は「以前島だった」パターンも少なくない。
そう思って調べるうち、実際に下浜村(御社宮司神社がある場所)の沖に「浜中島」という島があったことがわかった。
ただし、天然の島ではない。昔は諏訪湖の水があふれて水害が起こることが多かったようで、諏訪の人々は「湖から流出する量」を増やして治水することを考えたのだ。
つまり、天竜川の流量を増やすということ。
そのために、天竜川の入り口を広げる必要があった。まず一気には無理なので、①の水路を作ったらしい。(そうして浜中島ができた)
それでも大きな改善は見られなかったため、さらに大きな浜中島を分割する形で②の水路を。こうして島は2つに分かれ、浜中島から弁天島ができたという。
つまり、名前から考えれば弁天様はもともとこの人口の島に建っていたのではないだろうか。
その後は、段階的に浜中島・弁天島も取り去られたので、その際に弁天堂は現在の位置に移されたのだろう。
もし、島にいる当時から弁財天さんが今の方向を向いていたとすれば、増水のたび島へと押し寄せる大水に対して真っ向から向かい合うように立っていたことになる。
そうでなくとも弁天様を拝むと、諏訪湖から天竜川への湖口へ向くことになる。
甲立寺の観音様は、無数の川に囲まれた地で水害の原因とも言える川の上流見据えていたのでは…。という気がしてきた。
湖畔の2人の弁天様(甲立寺/浜中島)は、
事あるごとに荒れる川の抑えだった…かもしれない。
御社宮司神社(下浜)
弁財天と道を挟んで向かいにある御社宮司神社。境内の隅には、石祠と並んで注連縄で囲まれた黒い直方体の石がある。
隣で知人が「墓石か…?」と呟いている。いや、明らかに違うのだが、たしかにツヤのある表面やカッチリした四角さは近いものがある…かもしれない。
「濱むら 御社宮司神社元宮」と書かれているので、どうやら、御社宮司神社の旧鎮座地らしい。
平成になってから作られた石碑なので、書いてある文字は問題なく読める状態。この石碑は「開創350年祭記念」として「浦太郎社小まき中」の人たちが作ったというような内容が書いてある。
「まき」というのは、同じカミサマの氏子さんたちを指すこのあたり独特の表現らしい。
管理人の思ったこと③浦太郎とは誰なのか…今後要調査
石碑に書かれた「浦太郎社」だが、帰宅してからいろいろと調べても今一つ、というか何一つわからない。
以前に稲荷神社ばかりを巡っていた頃の話に、諏訪の市民球場周辺と湖北にある火葬場のあたりに「浦野太郎」と名のつく稲荷神社があったが、浦太郎と浦野太郎は同じなのだろうか。
浦太郎については今後要調査ですな。
おわりに
今回もまた妄想に満ちた記事ではあるが、神社ばかりでなく甲立寺さんや弁天様のおかげで、神域としての諏訪湖だけでなくその水とのかかわりを知る資料にたくさん出会えた。
ともかく、足長神社のことがまだ書けていないがやたら長くなってしまったのでとりあえず一旦〆るとする。
参考文献
『土木史研究 22号』土木学会土木史研究会 編
『諏訪市史 中巻』諏訪市史編纂委員会 編