今回は、桐生の賀茂神社境内にある豊機神社を訪れた。桐生は着る織物が有名な土地であるが、その機織りの技術を桐生に伝えたという伝説が残るのが豊機神社に祀られた白瀧姫だ。
なお、豊機神社がある桐生の加茂神社についてはコチラをどうぞ
豊機神社のこと
豊機神社は、桐生にある賀茂神社境内にある。賀茂神社の鳥居をくぐって境内の奥へ進んでいくと、そこにはもう一つ立派な鳥居があった。
鳥居から、まっすぐ階段が続いている。鳥居の奉納は明治と書かれていた。階段を昇っていくと、両脇に燈籠が立っている。
最初の一対には「糸まき」↓の装飾。
そして2つ目は一見 幾何学模様のようだが、機織りに使う「杼(ひ)」↓が4つ組み合わさった絵になっていた。
この意匠からもわかるように、この神社は機織りや養蚕と深いかかわりのある女性が祀られている。
全国的には機織りの女神といえばタクハタチヂヒメがメジャーだ。また、おとなりの栃木県足利市にある「織姫神社」は天棚機姫の娘or孫であるヤチヂヒメが祭神とされている。
しかし、桐生で機織りの女神様といえば!なんといっても白瀧姫サマである。上記のような神話の中の女神様とは違い、白瀧姫は身分こそ高いが人間の女性とされている。
そんな彼女が祀られているのが「豊機神社」。下の写真の木で作られた社殿が豊機神社だが、後ろを見てみると崖に同化して祠があった。
本殿と拝殿の位置関係…にも見えるがコレは一体。石の祠のほうが、もともとの豊機神社だったりするのだろうか?それとも、別の神様か?
ちなみに、この豊機社の奥は山なわけだが、社の左を見ると上のほうへ道が続いている。そちらにどうやら「賀茂山祭祀跡」というのがあるらしい。
行ってみようかとも思ったが、ちょっとやそっとでは着かなそうだ。いやぁ、そういうのはもうちょっと暖かくなってから…という軟弱な思考が働き、管理人は山を後にしたとさ。
【2019/6追記】
後日、加茂山祭祀跡へ登ってみたわけだが…何か遺構が見える形で残っているわけではなかった。
ちょっとした散歩道的に、険しくはない山道に公募なのか有志なのか俳句を刻んだ石碑が置かれ、豊機社のある小さな山の周りを軽くグルっとする。といった感じの道だった。
ちなみに季節柄か蚊がたくさんいたので、皆さん是非長袖長ズボンで虫よけなどご用意されたし。
白瀧姫のこと
先ほどサラッと触れただけだったので、白瀧姫がどのような経緯で養蚕・機織りの神となったのか書いておきたい。
平安京ができた頃の話。我が群馬県桐生市川内町あたりから宮仕えに出た男がいた。彼は宮中の庭掃除係として働いていたが、御簾の奥にいる姫(官女)を垣間見て一瞬で恋に落ちてしまう。
この女性が、白瀧姫だ。
身分の違いを思い、諦めようとするも諦めきれず、彼は思い切って歌合わせの際に彼女に歌を送った。当たり前だが、当時の歌といえば和歌である。ギターを弾きながら歌う自作ラブソングではない。
すると、なんと彼の歌は中々センスが良かったのである。最初は「私、身分高いのよ。そんなに恋い焦がれないで」みたいな返歌をしていた姫だったが、彼女のお父さんが彼の歌と一途さをベタ褒め。
さらには天皇も「いいんじゃない」と言い出す始末。そんなこんなで、姫は身分違いのお掃除ボーイの家へ嫁に行くことになった。
東京が首都である現在すら「未開の地」と言われる群馬。当時の京都の人からすればもはや場所すら見当のつかないような場所だったかもしれない。
色々心配ではあるが、ともあれ彼女は都で習得した養蚕や絹織物を桐生の人々に教えてくれたのだ。
参考:松崎寛(1999)「白瀧姫物語ー桐生織姫伝説ー」桐生市国際交流協会
畑中章宏(2015)「蚕」晶文社
大川内利彦(2003)「桐生の織物はどうしておきたのだろうか」
このエピソードも様々な地域で少しずつ脚色されながら伝えられてきたため、本当のところというのは分からないが…姫は単に桐生の人々に機織りや養蚕を教えただけでなく、彼女自身も織った布を京へ納めていたとも言われている。
白瀧姫の織った布とは
この白瀧姫がみんなに教えた機織りって、どんな布を作っていたのだろうか。
まず、養蚕も教えたというのだから材料は繭だろう。繭といえば絹。絹と言えばツルツルで薄手の布のイメージがあるが…。
調べてみると、当時の桐生織物は「仁田山織」という名前であることがわかった。これを調べると、どうやらツルツルの“生糸を使った布”でなく「紬(つむぎ)」のような生地と考えられているようだ。
みんなが知っているツルツルの絹織物に使う糸は、繭玉を煮て一本一本の糸口を探し出し、その一本一本を均一に撚り合わせたもの。
一方、紬のような生地を作るための糸というのは繭を煮てほぐし、広げてワタ状態にしたものから「こより」的な感じでネジネジしながら太めの糸を作っていく。
こちらは穴が開いた繭などでも使えることもあり、生産の難易度がやや低いと考えられる。
(とはいえ決して簡単というわけではなく、とても大変な工程で、納められるほどのものを作るにはかなりの技術が必要なことは間違いないが)
そんな仁田山織は平安時代以降も生産され続けたが、やはり京都などの上質な布に比べれば質は低く、長い間「田舎反物」の代名詞とされてきたのだそうだ。
江戸時代の書物を見ると「優れたものと一見似ているが劣っているもの」というような意味で「仁田山」が慣用句化しているのが分かる。
(例:洒落本 雲間夢中菴(1778)「大通秘密論」)
しかし、逆に考えれば 質が劣る代わりに安価であり、全国に広く流通しているからこそ誰にでも通じる慣用句として使われたのではないか。
群馬の名物や名所を集めた「上毛かるた」にも“桐生は日本の機どころ”と詠まれているように、白瀧姫のもたらした技術は長い歴史の中で確実に仁田山の麓にある桐生の町を潤したのである。
当時の布を取り巻く背景
それまで関東北部からの調(税を布で納める)は苧麻(麻の一種)を原料としたものが多かったらしいが、丁度この平安時代の前半頃から「あしぎぬ(ふとぎぬ)」とよばれる布も納付され始めたとか。
名前から、紬の糸のように太めの糸で作る絹製品と思われ、仁田山織の特徴にも似ていないだろうか。こうした布が納付され始めたということは、ちょうどその時代に北関東で絹製品の生産が始まったということ。
まぁしかし、そうして考えていると… 白瀧姫の伝説も、歌ウマなシンデレラボーイが「奇跡的に姫様をお嫁さんにできた」のではない可能性が出てくる。
地方から納付される布の品質を上げるために、養蚕と機織りに長けた美女を地方に「お持ち帰りさせる」作戦だったのでは!?だから天皇も積極的だったのか⁉︎
(; ・`д・´)
というのはあくまで想像だが、白瀧姫の話には そんな時代背景が垣間見えている、のかも。
今回、織物の時代背景と歴史に関して参考にした本はこちら。
ちなみに、「仁田山織」の仁田山というのは栃木県足利市の小俣にある石尊山のことらしい。白瀧姫が「アレは京にあった山と似た山じゃ」と言ったのでニタヤマという名前になってしまったとか…。
では、今回はここまで。
次回は、御篝神事へ行ってきた記事となります~。